2022-03-25 記事公開、高遠弘美先生の最終講義、市河晴子さん、困惑のクリエイション
記事ができあがってからも竹中さんと野村さんのおふたりにはお手数をかけてしまった。でも丁寧で心のこもったお返事をいつも下さって嬉しかった。
アパートメントを運営していたとき、執筆くださる方とのやりとりはほぼ私がひとりでしている状態が長く続いていたし、とても編集作業どころじゃなかった。公開されてから読んで誤字などに気づくことも多々あった。もちろん自分と比較するのはおこがましい限りなのだけれど、こんな仕事をこなしながら新しくイベントを立ち上げ、日々学ぶ姿勢も眩しい。大変でないはずはないので、手を煩わせてしまったこと申し訳なく思う。 最初はながら聞きだったけれど途中からこれはと居住まいを正して。
市河晴子という作家を知らなかったが、『歐米の隅々』と『米國の旅日本の旅』は特に読んでみたくなった。年内には素粒社からアンソロジーが出るとのこと。 #読みたい/観たい こちらには高遠弘美さんの書評が。
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久しぶりにクリエイションのことで少し困っている。
これでは全然良くない、という感覚が通じないので、改善の道がひらけないのだ。中途半端なものでも評価や満足をしてしまっているから反省もしないし、これではまずいじゃないかという私の焦りが伝わらない。
まだアイデア出しの段階だと思っていたものをそのまま舞台にあげようとしているのを、あと2回のリハーサルでどうしたらいいのだろう。
しかももう今の状態を何度か本番にあげているというのだから、これを良いと思っているのだろう。私が何かを言ってもうるさいだけ、傷つけるだけなんだろう…。
3年経っても全然変化しないことを私は、納得が行かず映像等を撮り直しているんだと思っていた。でも実際は特になにも考えていなかったみたい。毎回私は違うアイデアを投げて少しでもインスピレーションになればと思っていたけれど、他のひとは一切何も変化なし(3年間)なことに困惑はしていた。何をしようとしているんだろう、もっとシーンを作り込んだり、どういう画を舞台上に作りたいか考えたり、その上ですべての要素をつなげてひとつの旅にしないと舞台作品にならないよと話していたんだけど、彼らはもう何かを変えるつもりもなかったみたい。じゃあ毎回のリハーサルはなんだったのか…。練習?
舞台を作ったこともなければ、ほとんど見たこともない、踊りも音楽もしらないから演出はできないと言われてしまった。私は映像を作っただけで、あとは観客として見ているだけだと。
何故私を誘ったんだろう。
映画監督のいない映画は成り立たないように、演出をしないで好き勝手寄せ集めた舞台なんて自己満足の中途半端にしかならない。もしそれで成り立っている舞台があるとすればカンパニーとかでよほどお互いを知っているか、全員が舞台をつくる高い力量を持っているか。
舞台を作ったこともないひとたちが集まって、お互いの能力を持ち寄ってなんとかできるほど舞台は甘くない。
なめてんのか、って言いたくなるけど、もちろんそのつもりはないんだろうし、そんなこと言わない。
でも中途半端なクリエイションには付き合いたくないから、泊まり込みでリハーサル半分、お泊り会半分みたいなレジデンスには悪いけど参加しないことにした。
明後日から3日間パリを離れて泊まり込みでリハーサルしましょう、なんてこと言われても、こちらは仕事がある。
ほんとに彼らは働かないで済むんだな…
どうして時間があるのに中途半端なクリエイションしかしないの…。
コロナの2年間、彼らは一切仕事がなくても生活費を国からもらっていたわけで、(その間私たちは働いて働いて税金を払っていたわけだが)その2年間なにしてたのかな。この作品について一切進展がないのはどうしてなんだ。
私が怒るのは当然だと思うんだけど…。
まあ、通じないだろうから怒らないけど…
そのかわりここに困惑を記録しておく。
もうこういうクリエイションには絶対に参加しない。
意識の低い人とやろうとした自分が悪い。
良い作品にしたいから改善点を考えていて、考えれば考えるほどどうしようもないからもどかしかったが、どうせ私が何を伝えても通じないのならば考えるのをやめよう。今日はもうこのことは忘れて(最低限の返事はしたことだし)本でも読んでいいですか?